今日は、沢山のことがありすぎた日の心のおさめ方。

「一難去ってまた一難」という言葉をよく耳にする。本当に、私の人生も、常にこの言葉と共に、生きてきた人生だなとつくづく思う。
いよいよ大きな仕事もひと段落し、本格的にブログを更新していこうと思った矢先。日々を心を穏やかに保ちたいと願いつつ、先週に引き続き、たくさんの変化の波が押し寄せているような気がしてしまう。
今までも、物凄くたいへんな時は、人生の中で幾度も幾度も、訪れたけれども、かれこれもう、アラフィフという年齢になったら、多少のことでは、ひるまなくなってきている。
けれども、私は、何故か至って冷静です。大変なことが起きた時ほど、私は、どこか冷静になる。結局のところ、覚悟するだけだった。
先週のアクシデントが、丁度おさまっていた頃に、「次の難題が、きたから」この凄いタイミングを作れるのは、「神様しかいないのではないだろうか」と思うようになった。または、そう思うようにしている。
今までの人生もいつも大変なことが起きる時は、変化の時が多い。そして、自分に負けそうになるほどに、自分の運命を呪ってしまいそうなほどに、辛いこともあった。でもなんとか、やってきた。
自分にとって困難な出来事は、自分にとって飛躍する前ぶれだと考えられる。
そして、困難は避けたとしても、いずれは、また同じように出会う運命ではないのか。
「神様は、あなたに乗り越えられる試練しか与えない」
そう!これは、運命だから、出会う時期も最初から決まっていたと、私は、困難なことが起きる度に、そう思うようになた。
乗り越えられるかどうか、先のことは、分からないけれど、問題から逃げるのは、嫌いだから、自分がやれることを、精一杯やる、そして、一つ一つそのための行動するだけだと。
「自分が見えているのは、壁ではなくて階段」だと、
そう、自分に言い聞かせて、また新しいことにチャレンジしていく。
人生は、同じようにステージにいても楽しくはないであろう。
運命として出会うことは、飛躍するチャンス
今、この難題に逃げるという選択もできる。「そう断るという選択もしてもいいのだ」けれども、なんとなく、第六感的な直感が走る。それは、逃げていけない試練だということ。
「辛いことから逃げてはいけない」という意味ではなく、そういう誤解は、してほしくない。
人は、苦しい時は逃げていいと思う。例えば、故意に他人からの作為的な苦しみであったり、今の時代は、「我慢は美徳ではない」から、本当に苦しい時は、逃げるべき、言葉のチョイスが、「逃げる」という言葉が、ネガティブなイメージがするだけで、それは、当人にとっては必要な前向きな改善であると思う。
「何もしなければ、その状態から抜け出すことはできない」
その状況に一人苦しみ泣いたとしても、決して、状況は変わらない。結局は、「やるか、やらないか」「行動するか、しないか」を決めるのは、いつも自分。人間的
「やれるだけのことをやろう」という方を選択をする。それだけでいいのではないかと。人は、行動する前に、いろいろ結果を考え過ぎるから、行動できなくなる。
今まで、どれほど「もうダメだ」「乗り越えられない」と思っても、少しずつでも何かそのために行動するのがいい。「あぁ出来た。大丈夫だった。乗り越えられた。」それが、積み重なっていくと、何よりも生きる力となるから。
今までを振り返ってみても、「なんとか乗り越えてきたな、やってきたな」と思うと、これからの人生もそんなに大したことがないように感じてしまう。
少しずつでも何かやってみる。この天赦日にこの運命として出会った試練に感謝します。