「100万回生きたねこ」ロングセラーの理由は?

発売されてから47年という月日が
経っているのに、
未だ、ロングセラーが続いている
「100万回生きたねこ」。

この絵本は、子どもでも
十分に楽しめる作品です。

しかし、そのクライマックスに
なぜか涙を流してしまうのは、殆ど大人です。

この絵本の内容の意味を
本当に理解できるのは、
もうすこし大人になってからなのでしょう。

なぜなら、この絵本のメッセージは、

  • 「ただ生きることよりもどう生きるか」
  • 「どんな生き方が幸福なのか」
  • 「自己愛から他者愛への成長」
  • 「輪廻転生」など

かなり深いメッセージがある作品です。

作品のあらすじと伝えていることとは? 注意:ネタバレあり

表紙に描かれている主人公の猫は、
正直、可愛いらしい
という感じの猫ではありません。

目は座っていて、堂々とした立ち姿で、
自信満々に「オレを見てくれ」
言わんばかりに、
とても強い存在感がある。


それも、その筈。この猫は、100万回も生きて、
100万回も死んだことがある猫だからだ。


100万回生きたねこ(中表紙)

飼い猫時代の回想

主人公のねこは、決して、
人間が好きではありません

人間の飼い猫として、
「生と死」を繰り返す前編には、
そのページ毎には、必ず

・「~なんかきらいでした」
「~なんかだいきらいでした」

という言葉が、冒頭に必ず書かれています。

「きらい」という言葉でストレートに
表現しているところに、
この絵本のシュールな魅力があります。


しかし、「嫌い」=HATEの意味合いより、
「決して幸せではなかった」ということを伝えています。


「本当の幸せとは何か」ということも
大きなテーマだからです。

前半、ねこ側からの冷めた視点で、
人間を見ています。

反対に、飼い主のほうは、
ねこのことを愛していたので、
猫が死んだ時、飼い主は皆、
悲しみの涙を流しました。

しかし、ねこは、一回もなきませんでした。

そのように前編までは、
猫側の冷めた感情と人間側の感情
対比させています。

猫側には、「生」に対しての喜びも嬉しさも、
反対に、「死」に対する苦しみもさみしさも、

まったく読む人に感じさせないかのように
ただ猫の生と死が淡々と書かれています。

小さな女の子の猫だった時を最後に、
飼い猫として「生」は終わります。

「ねこは しぬのなんか
へいきだったのです」


たしかに何度死んでも、
また次の転生に生まれ変わるだけだと
知っていたら、平気なのかもしれません。

けれど、この言葉は
幾度と繰り返した受け身で生きた

「生」は、全く無味乾燥
喜びも悲しみの感情もなく

生きることは退屈でつまらない

と思っていることが分かります。

野良猫になり自由を手にする

次の転生で、やっと誰のねこでもない、
野良猫になり、
初めて「自由」を手にしたのでした。

自由になったねこは、
とても生き生きしています
飼い猫としての人生では、
「自由」を獲得できなかったからでしょう。

「自分が自分であること」において
幸福感を感じることは、
「自分らしさ」や「自己同一性」
の人格形成の過程に似ています。


ねこは、このとき、アイデンティティを獲得し、
ねこ自身の人生が始まったようです。


立派なトラ猫になり、
野良猫として餌も自ら捕まえ、
まるで「おれは一人でも立派に生きられるんだ」
と主張しているようです。


そして、その威厳のある堂々とした風貌と、
「100万回も生きて死んだねこ」
として有名になり、

猫たちの仲間から、もてはやされ、
ちやほやされモテモテになるのでした。

ねこは、だれよりも 
自分のことがすきだったのです。

人間の中でも、能力が高く
優れてはいるけれど、

周りから持て囃されたり、
過大評価されてしまったりしていくうちに、
自己顕示欲がどんどん強くなってしまう、
似ていませんか。

そんな間違った成長に向かっている気がします。

白いねことの出会い=人生の転機

しかし、たった1匹だけまったく
自分に見向きもしない白いねこがいました。


他のメスねこたちと同様に、
自分の凄いところを見せれば、
きっと、自分に振り向くに違いないと。


毎日、白いねこの関心を引くために、
「おれ、100万回も死んだんだぜ。」と

自分の武勇伝を話したり、
宙返りをしたりと必死でアピールします。

しかし、白いねこは、
いつも「そう。」とひと言、

素っ気ない返事をして、
どれだけアピールしても、見向きもしません。
全く変わらない素振りです。


毎日、毎日、白いねこのところへ行き、
同じことをしても
意味がないということが分かったのか、
それとも疲れてしまったのか、


「おれは、100万回も・・・。」といいかけ、
「そばにいてもいいかい。」白いねこに、素直にたずねるのでした。

白いねこはたった一言、
「ええ。」とだけこたえて、
それからは、ずっと一緒でした。

「ねこは、白いねことたくさんの
子ねこを自分よりも好きなくらいでした」


だれよりも自分が一番好きだったねこが、
自分よりも大切なものができたことで、
深い幸せを感じて生きていることに、
感動してしまいます。


しかし、やがて、月日がたち、
白いねこもおばあさんになり、
ある日、となりでしずかに
うごかなくなっていました

一度も泣かなかったねこが、
夜になり、朝になっても
ずっとずっと泣き続けたのでした。

100万回も泣き、そして、ねこは、
白いねこのとなりで、
しずかにうごかなくなりました。

「ねこは もう、けっして 
生きかえりませんでした。」

「生と死」や「愛」がテーマです。

前半では、ねこの感情が
全く何も感じられなかったのに対して、

後半は、生きていることの幸福感や深い喜び
穏やかで温かな感情も伝わってきます。


そして、今まで知らなかった
大切な愛する人を失う辛さ
どれほどかを知るのでした。


このように、「最期の生」を生涯を、
全うし「本当の死」を迎えるという結末です。

愛されることよりも、愛するほうが幸せなのか

この作品には、愛されたまま
生きている方が幸福なのか。

それとも後者の愛する方がより幸福であるかと
生き方に対する問題提起も見えます。

自分のことが大好きな猫でしたが、
きっと飼い猫として、愛されたということは、
親子関係にも似ています。

人の愛情形成は、親や他人から
「自分の存在は無条件に愛されている」
という根底があり、

自分自身でも自分を認められるようになり、
自分を好きになり
他者への愛という過程を歩んでいるからです。

一方的な愛情を受けているままでは、
幸福になることはできません。

「受け身のままでは幸福ではない」
「ただ生きていることには意味がない」
というメッセージもあります。

ロシアの思想家であるレフ・トルストイは、
「幸福」とは、自分よりも大切に思う人が
できて、自己愛から他者愛に、
向かうことで、より幸福になるということ
を伝えています。

「愛とは、自分自身よりも
他の存在を好ましく思う感情」であり、

愛を実践していけば、
愛は、自己執着からも解放され
本当の幸せの道に向かうと言っています。


結論:人間は、一方的に愛されるというだけでは、幸せにはなりません
しかし、人格の成長過程において、無条件に愛されるということは、必須であり、正常に愛情欲求が満たされという過程を経て、自分よりも他者を愛することができるのです。
本当に愛されて満たされた人が、他者を、自分のように大切に思う気持ちが生まれ、自分以上にも愛することができるのです。

マズローの幸福の欲求段階説

ねこの人格の成長は、
マズローの幸福の欲求の段階説の成長の過程とも、とてもよく似ています。

守られていたところから、
自己アイデンティティを確立し、
自立の道を歩み、
他者や異性に興味や正常な愛情を抱き、
やがて結婚、子どもができる。

自分よりも大切なものができることは、
「自己愛から他者愛に変化していくこと」

で精神の成熟度とともに、
より高尚な幸福を得られると言います。

しかし、その愛情の基盤から
自分の人生を自ら選んで選択した道に
進むということも、

子どもが保護されていた親元から、
離れて自立する成長過程と同じです。

ただ一方的に愛されるというところからは
離れていくことが自立の一歩です。

マズローという心理学者が提唱した
「幸福の欲求段階」と同じで、
精神の成熟度が満たされて、
次の望みや目的を抱き、

より高尚な幸福になっていくという段階を、
ねこは、輪廻転生を繰り返しながら、
成長の道すじを歩んでいます。

マズローの欲求5段階説は、人間の欲求が生理的欲求から自己実現の欲求までの5段階で構成されているというシンプルな理論
引用元:© Mirai Works Inc. All Rights Reserved

100万回生きたねこの感動的なラストの意味と教訓を考察


愛する人に巡りあって、
その人とずっと一緒に、
生きていきたいと思う人生は、

どんな次の命よりも、
かけがえのない生であり、
はるかに大きいということなのでしょう。

命があるということ、
そしてどう生きるか
考えさせられる絵本でした。

補足:この絵本のすごいところ

この絵本は、年長さんくらいなら、
一人で読めるくらいの長さの絵本です。

子ども向けの絵本であるのにも関わらず、
「輪廻転生」や、「主人公の猫の死」の意味を
理解することは、きっと難しいことです。

なぜ、作者は、主人公の死までを書いて完結させたのでしょうか。


もし私が、ストーリーを制作したとしたら、
きっとこんな感じになります(笑)

「幸せを知らなかった主人公のねこが、白いねこに出会って人生が変わった。

自分よりも大切に感じる家族ができて
生きていることに
幸福感と喜びを感じられるようになり、

白いねことその子どもたちと
ずっと幸せに暮らしました。

めでたしめでたし」

とハッピーエンドで終わることも
できるストーリーです。


しかし、作者の佐野洋子さんは、
最後に主人公の「ねこの死」までを、
しっかりと描き完結させました。

「死」というのは、悲しみを連想させると
子どもでも、死は悲しいと思ってしまう筈です。


けれど、「ねこの最期の死」は、
ハッピーエンドだとみな思うことができたのは、


それは前半の、飼い猫のまま生きていても
なにも喜びも悲しみも感じたことが
なかったからでしょう。


白いねこがいなくなったあとに、
また再び生きる希望
持つことができないのではないか。


「死」というのは、
本当の悲しみではないのではないか


まるで本当の悲しみは、
本当の愛を知らないまま
生きていることではないかと。


どれだけ何万回生まれ変わっても、
たった一回の幸せな生き方に価値がある


加えて、
“生きることとは、死に向かっているということを、忘れてはいけないよ”
というメッセージもあるのではとも考えます。。

人間は、生きていることに慣れてしまい、

その命が永遠のように感じ時間
無駄に使ってしまうものです。

「よく生きるということ」は、
同時に本当は、
「死」を考えることでもあるのです。

時間は、無限にあるわけではないことを
伝えたかったのだと思います。

子どものころから

「死」という現実を、絵本のなかでも、
子どもたちにも
自然に受け入れられるように
描かれた作品だと思います

皆さんも、「100万回生きたねこ」読んで、
なぜ、自分より大切な人ができると
幸せに思えるようになったのか、

「死を考えながら。どう生きるか」などと、
「自分の生き方」について
一緒にかんがえてみませんか。

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