人物から探る、愛しきゴッホの絵画の魅力とは

芸術


毎日、暑い日が続いて、まだ芸術の秋までには、ほど遠いですが(^^ゞ
今年は、灼熱の暑さ、ひまわりでも有名な情熱の画家と呼ばれる「ゴッホ展」、そして「大ゴッホ展」と2つのゴッホの展覧会が開催されるということを知りました。今年は、ゴッホが、とても熱い年になりそうな予感です。

ゴッホ展 家族がつないだ画家の夢
 2025年7月5日(土)~8月31日(日)大阪市立美術館
 2025年9月12日(金)~12月21日(日) 東京都美術館(東京・上野公園)
 2026年1月3日(土)~3月23日(金)(予定) 愛知県美術館

 大ゴッホ展 Ⅰ.夜のカフェテラス
 2025年9月20日(土)~2026年2月1日(日) 神戸市博物館
 2026年2月21日(土)~5月10(日) 福島県立美術館
 2026年5月29日(金)~8月12日(水) 上野の森美術館




大好きな日本は南国なのだと思い込み⊙﹏⊙
画家たちとの共同体生活を夢に抱いて、南フランスのアルル地方に向かい、
太陽に向かって咲く向日葵の花を「理想を追い求める芸術家の象徴」として、たくさん描いた。

真摯に描くことと向き合い、一つのことに情熱を燃やした画家

傷つきやすく繊細、不器用で、やる事はいつも空回りしてしまう。
けれど、どこか憎めない愛しのゴッホに思いを馳せ、
ゴッホの人物像をお伝えしようと思います。

ゴッホの生い立ち、人生から人物像を深めよう!

フィンセント・ヴィレム・ファン・ゴッホの生い立ち

1 幼少期から青年期(1853年3月30日生)

1853年3月30日に、オランダの南端部にある北ブラバント州で牧師の家6人兄弟の長男として生まれます。子どもの頃から、癇癪や感情の起伏が激しく、扱いにくい子であったことから、母との関係も良くなかったと回顧しています。孤立することが多かったゴッホでしたが、唯一、弟のテオドルス(通称テオ)とは、仲が良く、ゴッホの理解者となり、弟テオが、生涯ゴッホを支えていくことになります。

学童期に入ると、内気で内向的でありながら、気性の激しい性格のせいで問題児扱いされ、成績は優秀であったが、中学を中退しています。「若い時代は、陰鬱で冷たく不毛だった」と後に語っています。

[幼少期エピソード]ある日、森のなかにあるファン家のお墓を見つけて、自分と全く同じ名前が彫られていた。後々、ゴッホが産まれるちょうど1年前に、死産した男の子がいた。その子と自分が同じ名前だったことにショックを受けたゴッホは、自分は”生まれながらに死んでいたんだ”と感じ、自らのイデンティティに生涯、悩み続けた。

2 画商として働き始めるハーグ→ロンドン→パリ(1869~1876)

16歳から画商として働き始め、様々な絵画を見られる環境から絵に興味を持ち始める。画商としての仕事は、初期の2年間は楽しかったと語っています。しかしながら、血気盛んな年齢もあり、初恋からの失恋で仕事が、手につかなくなったり、頑固な性格なども災いしたりと解雇されてしまう。本人は「芸術は人生に打ちひしがれている人々を慰めるものだ」「絵画をただのお金儲けの商品として扱う画商の仕事に嫌気がさし、自ら離れた」と語っている。画商のあと、本屋の店員や教師のなどもしている。

3 牧師を目指し始める~人の役に立ち、施しをしたい~(1876年~)

元々は、牧師の家系に生まれた血筋もあり、次は牧師の道を志します。若い頃から、孤独感や心に深い傷を負っていたゴッホは、自ら牧師の説教を聞きにいったり、聖書を熱心に勉強していたり、宗教に救いを求めていた時期がありました。しかし、複数の語学力も必要で難関な神学部の受験勉強に、挫折し諦めます。
次は、伝道師を志します。ゴッホの独自のやり方で、衣服を貧しい人に合わせ、みすぼらしい物を着たり、自分自身もろくに食事をとらずに活動したり、勝手な活動がかえって教会から反感を買い、見習い期間に、お給料も止められ追い出されてしまいました。

人物像の考察]ゴッホは情に厚く「困っている人を助けたい」と過剰なほどに、‟人の役に立ちたい”という気持ちが強かったようです。誰かの役に立つことで、人との繋がりを求め、自身の孤独感を癒そうとしていたのではないかと私は、思ってしまいます

4 26歳(1880年6月頃)から画家を志す~ジャン=フランソワ・ミレーのような画家になりたい!~

牧師を目指していた頃、一人の牧師から自身の描いた絵画を評価されたことから、本格的に絵に打ち込みます。無職になったため、この頃から画商として成功していた弟テオからの仕送りで生活することになります。
ゴッホの初期の頃の作品は、農民の生活に光をあてた農民画で有名なジャン=フランソワ・ミレーに憧れており、その作風を真似て、かなり暗い色調の作品が多いです。

[人物像の考察]ミレーの貧しい農民に心を寄り添った絵画に感銘を受け、自身もそんな貧しい人に寄り添う画家になりたいと、農家の人にモデルになってもらうのだが、農家の忙しさも分からず長時間、ゴッホに付き合わなければならず、実際は、かなり迷惑がられていたようです-_-

5 パリ時代(33歳~)ジャポニズムに興味を持ち、日本の浮世絵から影響を受け、明るい色調に変化していく

弟のテオも兄ゴッホの絵の才能を信じて、美術学校の入学を援助します。その頃、パリで、ゴーギャンや印象派モネ、新印象派の点描スーラやシニャック、ロートレックなどといった画家たちとも出会い交流し、絵画の表現方法を学びます。パリでの印象派の影響とベルギーで出会った「タンギー爺さん」という画材店の店主から、画材を買って、お金が無いときはツケにしたり、代わりに絵を描いて渡していました。この頃パリは、ジャポニズムが流行しました。日本画の色調や画風を熱心に研究し吸収しようとしていたようです。弟テオから暗い色調を明るくした方が良いとアドバイスされると否定的でしたが、この頃から、浮世絵の模写や色彩の影響から、徐々に色調が明るくなっていきます。

[大好きな人を愛情込めて描く]自身の自画像以外に、何人かの交流があった人たちを描いています。ゴッホは、無器用な性格のせいで、美術学校以降は、モデルになってくれた人や優しくしてくれた人、少なかったようなのですが、お世話になった人、親しみを感じた相手に対しての愛着は人一倍深く「タンギー爺さん」もその一人で、人物を、とても丁寧に描いています。描いている人物は、ゴッホが大好きだった人です。「自分が彼に対して持っている敬意や愛情を絵に込めたいと言っています。そして、その人に合った色を自分が選んで描いているのだと。

6 南フランスのアルル地方に向かう~ゴーギャンとの暮らし(34歳~35歳)

絵画について勉強し、刺激を受けたパリでしたが、都会の喧騒や雑音の多い空気が合わないとパリを離れています。絵画に集中できる環境へ引っ越すことを決め、ロートレックから、‟南フランスのアルルの太陽の輝きは素晴らしい”ということを聞き、『光が溢れる国・日本』のようなところで、そこで画家たちの協同組合を築くことを夢見てアルルに向かった。格安の「黄色い家」を借り住み始めます。ここから、数々の名画が生まれます。
協同組合を作りたいという兄の気持ちをよく知る弟テオは、多くの画家に、手紙を書き、兄の所へ行って欲しいと頼んだそうです。その中で、交流を持ったことのあるポールゴーギャンだけが行くことを承諾しました。当時のゴーギャンはかなり困窮しており、家があり食事代が要らないという理由だけで行ったようです。

[向日葵を描いた理由]ゴーギャンが、来てくれることを知ったゴッホは、たいへん喜び来る日を待ちわびながら、たくさんのヒマワリを描きました。「光に向かって咲く向日葵は、理想を追い求める芸術家の象徴」だと‟一緒に夢を追いかけていこう!”とヒマワリの絵を、ゴッホは、部屋いっぱいに飾りたいと思っていたようです。他にも、ゴーギャンの為の肘掛け椅子や家具なども準備し、自分のものよりもいいものだとアピールしていたようです

7 耳切り事件の真相とは

共同生活は、1か月ほどで、美術に対する考えやゴッホ自身の荒れている生活で頻繁に衝突するようになっていきます。互いに強い個性がぶつかり合い、ゴーギャンは「性格の不一致で一緒に暮らすのは耐えられない」「制作の為には平穏が必要だ」と、弟テオに伝えています。それでもゴッホは、ゴーギャンが、去ってしまうのではないかと、また1人になってしまう寂しさに、怯えていました。
ある日、ゴーギャンが描いた絵の中の「ゴッホの耳」が、「僕の耳はこんな耳じゃない」気に入らないと些細なことを理由に言い争いになり、遂に耐えかねたゴーギャンはアルルの黄色い家を出て行ってしまいます。その後、自身の耳を剃刀で切り落としました。
この事件には、諸説あります。居なくなった後、錯乱し自分の耳を切り落とし、それを、ゴーギャンがよく通う夜の店の女性に「僕を忘れないでくれ」と言って耳を渡したと(ゴーギャンに渡すつもりだった)。もうその場所に、ゴーギャンはいません。孤独を恐れ、異常なほどに自分に気を向けたいと強い思いが狂気的な自傷行為を走らせてしまったのではないか。または、ゴーギャンが言い争いの末に切ったのではないかという説もあります。

[人物像の考察]ゴッホは、小さな意見の食い違いでも、自分の人格を全否定されたと思ってしまう性格でした。度々、自傷行為をすることがありました。ゴッホは、自分自身を傷つけることで、自分に関心を持ってほしい、離れないでほしいという思いがあったようです。狂気的な極端な行動に出てしまうことがゴッホの最大の欠点でした。幼い頃から、孤立感を抱き、また一人ぼっちになる寂しさが耐えられないほど寂しかったのですが、周りからはやっぱり危険人物と思われてしまいますよね。そこに、切なさをかんじてしまいます::>_<::しかし、ゴッホ自身は、一度も他人を傷つけたことはありませんでした。

8 精神病院に自ら入院する~サン=レミ修道院療養所~

病院で処置され、一時退院をして、黄色い家で耳を切った自分の自画像を描いています。しかし、耳切り事件後、アルルでも異常者扱いをされ、近隣住民からゴッホを精神病院に入れて欲しいという請願書が提出され、アルルの病院に入院します。幻覚や発作に苦しみ、その時期にあった弟のテオの結婚式にゴッホは参加することもできず、隔離された病室で自由に絵も描けなかったのだという。
1889年5月からはアルル近郊のサン=レミにある療養所に自ら入りました。療養所で暮らしながら風景画や人物画をたくさん描きました。その頃から、精神的な影響からか筆のタッチが、渦巻き、うねり始めるようになる。ゴッホ自身は、「自分は見たまましか描けないのだ」って言っていることから、そんなに意識をして渦にして描いてはいなかったよう。一年ほど入院し、5月16日サン=レミの療養所を退所した。

晩年に近づいて、ゴッホの絵画は、評価が上がり始めていた。喧嘩別れしたゴーギャンや印象派の巨匠モネも、高く評価していたという。あともうひと頑張りというところだった・・・つづく

9 オーヴェル=シュル=オワーズに移り住む(1890年5月-7月)~拳銃自殺⁈~享年37歳(1890年7月29日死去)

最晩年の1890年に、パリの北西の農村の地域に移り住み、精神科医であるポール・ガシェによる治療を受けます。ゴッホはオーヴェルの地域もとても気に入っていたようです。
7月27日の夕方、オーヴェルのラヴー旅館に負傷したゴッホが、歩いて帰ってきました。弾丸が心臓をそれて左の下肋部にとどまっており、出血は、既になかった。旅館の人が、ゴッホの担当医のガシェ医師を呼びますが、専門外のため、病院に搬送するのも危険と判断され、絶対安静のまま過ごします。2日は意識もあり、弟テオを呼んでほしいと最期の言葉をかわし7月29日に息を引き取りました。

[ゴッホの最期について]ゴッホは、精神病院でも自殺未遂をしており、自傷的な行動も多かったためか、麦畑で自らを拳銃で打ち、自殺を図ったというのが定説とされています。しかし、ゴッホ自身が拳銃を保持できるほどお金もなく、目撃した人もおらず、自分で打つには不自然なところが多いのは事実。
ゴッホは、オーヴェルの地域に移り住んでから、地元の若い未成年の者たちにからかわれて、よくいたずらをされていたらしい。その子ども達との小競り合いの末の出来事だったのではないかという説もある

10 ゴッホの死後

ゴッホの死後も兄の回顧展を実現しようと尽力していた弟テオでしたが、実現できず、テオの自宅での展示会で終わりました。ゴッホの創作活動を援助し支え続けた弟のテオでしたが、テオ自身も体調を崩します。精神病院へと転院し、1891年1月25日にゴッホの後を追うように亡くなっています
後にテオの妻ヨーが夫の意思を引継ぎ、ゴッホの作品を紹介する努力を重ね、展覧会を開いたり、画商に絵を送ったりして広める活動を地道に続けた。
徐々に、ゴッホの人生の波乱万丈な伝記的な側面と芸術的な側面の両方が注目され、人々に知られるようになります。絵画は賛美と賞賛を受け、ゴッホの絵画は、後の主要な画家たちにも、大きな影響を与えていくのです。

弟テオと妻ヨーの息子もオランダのゴッホ美術館の設立に尽力しました。ちなみに、名前は、「フィンセント・ウィレム・ファン・ゴッホ」叔父と同じ名前である。ゴッホは甥っ子の産まれた時に出産祝いに『花咲くアーモンドの木の枝』という絵を贈っています。

情報元:参照元:Wikipedia フィンセント・ヴィレム・ファン・ゴッホ
情報元:youtube 山田五郎 オトナの教養講座
情報元:原田マハ ゴッホのあしあと 幻冬舎文庫

注釈)「ゴッホの生い立ち、人生から人物像を深めよう!」の内容は、上記のリンクの文章や動画などを参考にして、私なりにわかりやすくまとめたものです。

ゴッホ絵画の魅力とは~作品の変容と心理的な影響~

以上、ゴッホの人生を、簡単にお話しさせていただきました。
ゴッホという人物像をどのように感じましたか?

人生を知った上で、作品を鑑賞すると、作品に対する理解も深まり、新しい見方や味わい方があります。画家としては、遅咲きで、本格的に絵画を描いた期間は、10年間ほどでしたが、その10年ほどで約2,000点も作品を遺しています。

持ち前の一途な情熱を美術に注ぎ、とても勉強熱心で大の日本オタク。
日本の浮世絵、印象派や点描などにも影響を受けながら、
ポスト印象派の中でも、強い存在感でゴッホにしか描けない
独特の筆致や色鮮やかな大胆な色彩を確立していきました。


ゴッホの情熱的な性格から勢いで描かれたようにも見えますが、
実際には、補色を使った色彩理論をしっかり理解しており、
互いに引き立つ色を選びながら丁寧に、仕上げていきました。

黒っぽい色調から明るい色調へ


かつては、暗い色調で、農民を描いていましたが、何か憑き物が落ちたかのように、明るい色調へとどんどん変化していきました。作品のマティエール(絵肌)にもこだわり、厚塗りになっていきます。

向日葵の重厚感をよく表現した「ひまわり」
色彩の対比が素晴らしい「夜のカフェテラス」
夕陽の眩さと反射する麦畑「日没の種まく人」などの名作が生まれています。

希望にみなぎっていたアルルに行った時期に描かれた作品は、
ほとんど絵画から眩い光を放っているように明るいものです。

アルルに行った頃が、ゴッホにとってのどれほど希望に満ち、
素晴らしい時期であったことが作品からも感じ取ることができます。

黄色の色彩について]アルル地方の「太陽」「麦」「夜の光」「黄色い家」を表現するために、クロムイエロー(明るい黄色)の顔料を選んで、積極的に使っていたそうです。

精神病院に入った頃から、渦巻き、うねりはじめる


晩年の3年ほどは、色覚異常や発作や幻覚などから、精神面でもかなり苦しんでいた時期から、筆跡のタッチがどんどんうねり始めます。

この頃の作品は、渦巻くタッチは、揺れ動く感情の不穏な心理を反映しており、どんどん筆跡が荒く、うねっていきます。色彩と形態によって内面の情念を表現しようとしたのは、後々に、表現主義の画家たちが目指していたものですが、ゴッホは、意図せずに先駆けて行っていました。

色彩の持つ力を利用して表現することも、後のフォーヴィズムや表現主義の画家たちに影響を与え、次の時代を予感させる新しい表現だったのです。

ゴッホの方が、時代を先取りし過ぎで、評価されなかったのかもしれませんね

最期に~ゴッホの素敵なことば~


「二つの補色の結婚によって二人の恋人たちの愛を表現すること。……星によって希望を表現すること。夕日の輝きによって人間の情熱を表現すること。それは表面的な写実ではないが、それこそ真に実在するものではないだろうか。」と書いています。

参照元:Wikipedia


ゴッホ絵画は、単なる人物や景色をそのまま描いているのではなく、人や景色、物がそれぞれが放っている感情があるのだと言います。確かに、ゴッホの作品は、どれも冷たい感じがするものはなく、感情の熱量を感じます。

その描く対象のもっている情熱の色を、ゴッホが、代わりに絵画として表現しようとしてくれていたのではないか。ゴッホの絵を見ると、なぜか体温が上がって、熱くなる理由が分かりました(❁´◡`❁)。

1890年7月29日に、37歳でゴッホが亡くなってから135年が経ちました。

あなたの作品は、今でも多くの人々の心を愛で温めてくれています。どうぞ安らかに。

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